(16)明野町小笠原 福性院の子守地蔵
掲載:広報ほくと2008 9月号 No.47 p.17
小笠原の村人たちが1か月半かけて運んだと伝わる大きな地蔵。
むかし、茅ヶ岳(かやがたけ)の山裾に「女沢」という窪地があり、そこには真言宗の寺があって、たくさんの僧や僧兵が住んでいました。時は経(へ)て、その寺は滅び人も去り、小笠原(おがさわら)の村人たちは独りあった大きな石の地蔵尊を、1カ月半かけて村の寺まで運びました。
この地蔵、じつは地蔵菩薩(ぼさつ)ではなく薬師(やくし)如来(にょらい)なのですが、地元では「子守地蔵」と呼んでいます。 子どもがあまりに夜泣きをしたら、ぼた餅(もち)を地蔵尊に供えてお参りをすると、夜泣きがピタリと止まるということです。もし、供えたぼた餅を盗(と)って食べた子が成長して子を産むと、その子はいっそう夜泣きをするのだとか。別名「夜泣き地蔵」とも。 さて、平成となった10数年前のこと。福性院(ふくしょういん)の入り口にあった子守地蔵を本堂近くに移動させようと、寺の人たちが蓮台(れんだい)を覗(のぞ)いたところ、出てくるは、出てくるは、それはそれはたくさんの古銭(こせん)。…100年前のもの、…200年前のもの。決して多く持っているわけではない銭を生活の中から工面(くめん)して、江戸時代から村人たちは、子守地蔵に手を合わせ続けてきたのでしょう。そう思うと胸が熱くなったと寺の人は語ります。
地蔵データ:丸彫坐像。右手は施無畏の印、左手に薬壺。総高約350cm(蓮台・台座含む)。1775(宝暦5)年造立。刻銘「□便五重宝座□□□ 宝暦五乙亥稔仲秋日 法印権大僧都円誉」(□…判読不明文字)